僕の備忘録とか

記録とか適当に思想ばらまいたり

生々しさと新鮮さ

3Dと2D

探検活動

入った部活がちょうどそうである。

大学生においての本業は学業だとどっかで書いた気がするが、副業、、、というかサブの活動もあってもおかしくはない。僕にとって、大学生活のサブ活動(というかメインに通じる話も当然あるが)は、「探検」と言えるかもしれない。探検する機会なんて、いつでもある。ただただ人類が今まで行ったことないとこを探索したりすることだけが探検ではない。主語を「人類」から「私」に変えるのである。今まで行ったことない店に行くのもそうだし、今まで感じたことない痛み・疲労を味わうことも探検のうちに入ると思う。要するに、初めての物、概念にぶちあたること、と言えるだろうか。

実は、探検癖というのは大学から始まったことでもない気がする。一番最初に心当たりがあったのは、外食関係の話だろうか。僕は、高校時代に活動範囲が増えて、何回も自転車や電車に乗って遠くまで外食をした。別に東京に行けばすぐ食べられるであろう、チェーン店のものまで。例えば、「かつや」「からやま」「天下一品」などは、遠くまで行って食べた記憶が蘇る。からやまの唐揚げはとても美味しかったなぁ、、、。とにかく、今まで行ったことのない店に何回も行った。流石に塾の帰りなどで、いつもの店でちゃちゃっと済ますことも多かったが、やはり外食の多様性(?)は僕なりに意識していたと思う。このように、行ったことない店に行って舌を触れるのも探検のうちに入るのではなかろうか。というか入らないと話がズレる。外食だけでもない気がする。鉄道で遠くに行くことも何回かあった。吾妻線だ。僕が高校一年生か二年生の頃の夏休みだかに、ひとりで高崎駅からずーっと同じ電車を乗って、大前駅という終着点についた記憶。これより先は電車が通れないあの感じ。そのとき、ボットン式便所を初めて見た。ちゃんと大便はぼっとんと落ちていくものだった。誤って何か落としたらもう終了だろう、あれは。

ともかく、僕のなかに密かに、無意識的に冒険心があり、(と省みる時点でもはや意識的へと変化しているが)その勢いのままとある部活に入ったと言える。これが楽しい。

 

生を見る

僕がその部活に入って、嬉しかった点はなにより「部の生の姿を新入りが見ることができる点」に尽きる。新歓活動は、たいてい、どっかの居酒屋や大きな飲食店でわいわい楽しんだり、それ用のライブを披露したり、、、とにかく、歓迎ムードなのである。歓迎ムードで部活の生の過酷な姿を覆ってしまっている。説明会らしきものに変貌したり、つい最近まで一年生だった現二年生がめっちゃ調子乗ったり。これはこれで良いのかもしれないが、どうも現実との乖離を感じてしまう。しかし、僕の入った部活はそうではなかった。説明事項はささっとスライドで済ませ、あとはいつも通りの部活の定例会の姿。着いて来れないところもあったが、なんとか乗ることができた。本活動も、基本的にはいつもの姿のままで、ちょっと難易度(?)が低かったり、先輩方が積極的に話してくれる程度。この生の感じは、僕は好きだ。やはり、新入生にとって適性がわかる一番の方法は、部活のいつもの姿を見ることであると思う。もちろん、非日常的な宴会も僕は好きだが。

生を見るというのは、もうひとつ、別方面の要素も含む。今までスマートフォンでしかみれなかったもの、もっと言えば、文字から想像することしかできなかったものが、三次元上の物体として現れる。このリアルさに触れるのは、なんか言葉では言い難いが、大切なことのように思える。見るだけでなく、触れ、食べ、嗅ぎ、聞き、利用する、、、。物体として現れていると、人間の五感などを総動員させることができる。楽しいし、なんらかの豊かさを得た気分になる。変な感情になることもある、、、遠いという感情。うまく言えないが。もちろん、Googleマップを見て仮想の旅をするのも好きだが、やはり本当の旅に勝るものはないと思う。というか、本当の旅ができないから仮想の旅をするにすぎないのであって、優劣をつけて良いのか言われれば不明であるが。

...この四年間で、僕の人生がさらに豊かになれることを願う。いろいろなことを経験して、写真に残しつつ。

 

若々しく、新鮮

大学一年生。まだ若い。そう感じる理由は、上の人が車を運転していたり、お酒を飲んでいるからに尽きる。20歳の壁は分厚い。20歳になってから、やれることが多すぎる。逆に、まだ僕はお酒を飲めないという現実を知り、若いなあ、、と思ってしまう。もちろん20歳も十分に若いが。それで、若く、新鮮味がある。何人かの同じ一年生部員と話したりしたのだが、生きていた世界線が全然違う。微妙に訛っていたり、the野生という人もいたり。関東圏の人が対していなかったことに衝撃を受けた。それでいて、性格も、初めて見るような人が多い。典型的な現代人がいなかった。これは偶然に過ぎないかもしれないし、そもそも似たような人というのはある方がおかしいのかもしれないが。僕もそのうちの1人で、まして誕生日もかなり遅い方なのでなんとも言えないが、大学生という肩書きがあってもまだ一年生は若々しいもんだと思う。

この若さも、味わえるのはそろそろ終わりを迎えるのだろうか?

と考えると、実はまだまだ機会は残っている気がする。若いというのは、年が経つに失われることのように思えるが、実はそうではないと思う。若い、と思う人と、思われる人の年齢差が「この人たちは若いな、新鮮だ」と考えられる要因な気がする。だとすれば、大学に入った時だけでなく、会社に入った時も同じことを思われるだろう。そして、僕が歳を取ったら今度は思う側に回るのかな。それはそれで自分としての成長を感じつつも、老いから避けられない現実もみてとれそうだ。

 

———そういえば、僕らは数十年後どうなっているだろうか。

 

これは、希望ではない。逆に、絶望と言えるとも限らないが。

これまで出会った友達も、いつかは歳をとる。可愛かったあの子も、友達として何回も話している彼も、真面目な奴らも、、、。もちろん、最近出会った人たちも含め。いつか、年老いてしまう。見るに耐えない姿になってしまう。顔がふやけてしまう。可愛いとは言えない。あれだけ頭が良くても、認知症になり、忘れてしまう。この事実には、たまに脅かされる。何より、記憶がなくなるというのが怖すぎる。今まで出会ったなにもかもがしーんとなって、話していた仲の友人にも認められない。この事実にはぞっとするものがある。

ただ、これも仕方のないことなのかもしれない。動物として、ヒトは老いて死にゆく。そういえば、死んだ後はどうなるのだろうか、、、。ここまで考えたらキリがないか。

 

今日はここまで

死への恐怖的なことを同じく考えた社会学者がいる(正確には「居た」)。見田宗介さんである(少々ズレたことかもしれないが)。図書館で、彼の著作「社会学入門」(岩波書店、2006年)を読んでいるが、彼も旅好きである。本の内容は詳しく書けないが、なかなか考えさせられる系の本だと思う。なにより、国語の教科書に載ってた部分がなかなかに面白く、それがまさかのこの本の部分だとは思えなかったが。これには衝撃と懐かしさを覚えた。

最近咳がやばい。風邪をひいた。看病してくれる親もいない。薬も自分で買う。これぞ一人暮らしか。さっさと慣れよう。

ここまで読んでくださりありがとうございました。