僕の備忘録とか

記録とか適当に思想ばらまいたり

高卒の資格を得ました

 

 そういえば、3/1が土曜日だったら高校の卒業式は3/3だと思うけれども、この時3/1,2はまだ高校生のままなのだろうか?

 

もう卒業?

 今日3/1は卒業式。実感ゼロ。受験の合否がかかってるのもあるだろうが、ほんとに実感がない。でもお世話になったことは確かだ。少なくとも「あの人たち」に会う機会を提供してくれたと思えば素晴らしいもんである。多分僕が良い意味で変わった場所。

 

ちっちゃくなった卒業式

 はっきりいって最高。まず、練習回数が1回しかない。この時点で素晴らしい。

 小中のころの卒業式はクソである。めっちゃ練習するし、合唱するし、結局教師らの意向に従うだけじゃないか、、、。というか、小学校中学校は全体的に脳死的思考をする人が多かった。まだ僕らがコドモすぎただけかもしれないけど。

僕が通っていた(ついに過去形か)高校は、そこら辺のテキトーさが良かった。練習は一回のみ。呼名のやり直しも無い。あと校長先生の式辞は仕方ないが、全くかかわりのないPTAとかの式辞がカットされたのは本当に良い。(配布されたパンフレット参照、のことだそう。)

 

なんか怪しい送辞

―これだから文系は...

 卒業式には当然卒業生代表して生徒会長とかによる送辞がある。僕らの世代の生徒会長は文系クラスの社会好き。かなり声が聞き取りやすく、面白い人で適任であったと思う。ちょっと文化祭の話多すぎたけど。

、、、とだけ書く予定だったが、後半にまさかの路線変更。

少なくとも「皮肉」「共通テストの対話問題」「個人が対話を拒否」とかいうクリティカルな言葉が繰り出されるとは。

とにかく、後半になって急に現代社会の分析をしやがったのである。評論家じみている。はっきり言って僕の目は泳ぎまくった。「ん?なんか...」と心の中で常に思った。

 でもそれはそれで良かったとは思ってる。そんくらい言えるほどのココロというか考えというかがあるのは素晴らしいことだ。ふん、これだから文系はちょっと思想を周りに聞かせたい性を持っているからちょっと引かれることもあるのだ。さすがに強いっすあれは。でも、嫌いじゃない、むしろ好み。(そう思うと理系の僕も文系的成分があるのでは?と考えつくも、文系の別の友達にまっすぐ否定されたことを思い出し、おとなしく理系人を認めるしかなくなる)

 

ソノゴ

 正直するーっと終わった。僕が通っていた高校は、校歌とともに応援歌なるものがあるのだが、古い演歌じみた長の謎の歌である。正直好きになれなかった。あと卒業式にかかわらず、表彰とかの式の終わりにいつも歌ってたので、飽きも生じていた。諸連絡が終わって「あー終わりだ!!」となった瞬間に来る「○○〇(応援歌) 斉唱」は絶望であった。(応援部の皆様にはごめんなさい。)

 

先生の挨拶は定番?

 まあ恒例行事。最後のホームルームで担任がありがたいお話をする。このことは変に語らず胸にしまっておこうと思う。ほんとに大事なことって、例えば写真のような記録媒体とかに残すのでなく、ずっと胸や頭にしまっといたほうが良い...気がする。

ちなみに、とても話しやすい先生だった。まさか、、、僕の憧れである「2010年±のニコニコ・ボカロ全盛期」の当の人だなんてな。

そのあといろいろ写真撮ったり。写真撮りすぎだろ

 

陰キャの救い

 はっきり言って、男子校(とりわけ公立男子進学高)は陰キャや怠け者の救いである。 というか僕の高校はとりわけその成分を感じる。

とにかく、輝く場所が与えられているなと感じた。一番は文化祭実行委員だろう。

僕はそこに救われた"一人"だと思う。正直そんな、中学のころは弱かった奴が輝くという典型的な小説的展開なんぞ僕くらいしか経験してないと思ったら、意外とそうではなかった。もっと居たのだ。救われた人が(多分後で詳しく話そうか。)。そしてその救われた人同士でさらに向上していく、、というサイクルが起きている。凄いシステムである。(これを救われたと表現すべきかどうかは反論の余地があることは否めないが。)

これから

ひとまずは後期の勉強しつつ合格発表を待つ。京都大学受かってればなー。

 

 今日はここまで。やっぱ思いを吐露するのは楽しい。この思いを見る人がいたらそれはうれしい話である。

この記事はいつも以上に記録的な成分があり、文章表現がつまらんものであるのは申し訳ないと思いつつ。