僕の備忘録とか

記録とか適当に思想ばらまいたり

文化祭への考察 多分その1

所詮は高校生。限界ってものがあります。

でも学べることはたくさんありますよね。

 

まずはじめに

これまでのはあくまで体験記録。ただ一人の物語。個人的にはこっからが本番。

高校における文化祭はどうあるべきか?どのような能力が必要か?失敗したと言える点も多かったからこそ考察していければと思う。懺悔も含む。

正直未来の僕が見て役立つかは不明だが、僕の高校のように文化祭とかの学校行事が生徒主体で大きい高校の生徒が見てくれれば幸いである。多分リーダー的ポジの話が多め。

 

大人対コドモの戦い

たいていの場合、権力者は敵で弱者は見方側になりがちである。弱者を排斥するヒーローなんぞあまり見ない。

文化祭においては、学校や教育委員会といった大人が権力者ポジションで、生徒が弱者ポジションとなる。ここに非対称な力関係が現れ、メディアや世間は弱者の味方をして、権力者を説得する流れが現れがち。

ただ...フィクションの見過ぎだろうが、どうも「高校生の僕達が大人を説得して、とても楽しい行事を完成させました!いろんな反対の声もありましたが、僕達の熱意が勝りました!」みたいな物語を作ろうとしてる人や、挙句現実がそうなると妄信する人が多いと思う。これは文化祭に限らず、政治関係でもよくある。(たまに、というか大体?は弱者を裏で操る別の権力者がいることもあるが、今回はそれとは別の話。)

はっきり言ってこんなの「我が儘」にすぎないのではないか?よく敵にされがちな大人側の事情に立ってみると、「やりたいのはやまやまだけど金がない」「やりたいんだけど、それに見合うリスクが大きいんだよ」という気持ちが見えてくるはずである。

―え?それはわかってるって?でも、僕らはやれるから大丈夫って?

そんなのは無責任である。とても大切なことを忘れている。すなわち「生徒は大人が作った環境を借りている」ことである。僕としては、体験談にあった怒られ話で酷く痛感した。そう、環境を作ったのはほかでもない教師なのである。よって、基本的には教師の言い分はある程度まで聞かなければならないのは当然である。他人の部屋を汚くしたら綺麗にしなきゃいけないし、他人の金はその他人に従って使うべきである。大丈夫という無根拠な発言で自分の環境を相手に受け渡すほどの勇気のある人は少ない。

ただ、僕らのような生徒主体の学校では、教師がある程度の譲歩をして、生徒に自由を与えている形にまる。もちろん、それが当然だと思っては最悪である。むしろ譲歩させられた立場なのにさらに我が儘言うなんて大人としてはひどく腹が立つに違いない。それで怒ってみたらメディアに取り上げられ、権力者はたたかれる運命になる。

結局、大人対コドモの”戦い”は幻想にすぎず、生徒側は当然、教師側の言い分を最大限考慮して”共同”しなければならない。甘えてもらった事が奇跡なだけであり、そんな成功体験を当然のように語ってはいけない。まして生徒の成果とするのは論外である。感謝の心は常に忘れてはならない。

 

長の特権

 チーフというか班長としてうまくいかなかった僕だからこそ言えるが、班長やリーダーというのは、ほかの者より少し権力があるからこそ、その権力を使わなければならない。すなわち、人を指示して教育することである。

ただ、僕みたいな少々弱い人は、自分一人で解決したくなりがちである。(あと人を指図することに全く慣れてなかった。というかあれを機に慣れる必要があったのだろうけど)これは一般の民なら問題ないが、チーフ的な人にとっては少々問題になる。

まず、班員が、今なにをやるべきかを把握しにくくなると思う。頑張っている姿勢を見せるのは大事だし、それを見て成長する人もいるだろう。ただ、それよりは、今何をすべきかを言葉で明示して、やることを染み込ませる方が確実だし班員にとってもやりやすいのではないか。あと、弱い下級生(?)にとっては、独り頑張る人よりもうまく指揮して場を動かす人のほうがかっこよく見えるもんである。というか、真面目な人よりちょっと尖っていながらも人を利用する人のほうが人気が出やすい気がする笑。

ここで大事なのは「与えられた権利を果たす」ことだろうか?

これも文化祭にかかわらないことで、かなり個人的な意見だが、ある程度の権力を持つ人は、それ相応に力を発揮しなければいけないと思う。当然だと思う人もいるかもしれないが、前述した、独りで働くだけのチーフ君は残念ながら「それ相応に力を発揮していない。」働くことなんて誰でもできることである。ある程度の指図する地位があるからこそ、その権利を使い果たす必要がある。宝の持ち腐れは最悪である。

そういうわけで、権力者は相応の力を出さなければいけないから、必ずしも昔権力が(相対的に)強かった”男性”が幸せといえるかどうかはわからない、実は相応に頑張るという義務があって辛い面もあったはず、、、というのは完全なる余談。多分怒られる。これだから男子校は、、、、。

まあとにかく、長としての権利はしっかり使い果たす必要がある。チーフ的な人にしかないってことは、使わないと何もない。あるのは個人個人が働くだけの場になる。実際、ほかの班でしっかり指揮するチーフを見て実感した。行き過ぎた個人主義では覇気がない。ある程度の権力関係があってこそ、意識の高い場になると思う。指図しないで作業するだけの人をチーフといえるのか...。

 

支えの存在

 僕の班にはめっちゃ有能な同学年の子がいた。とにかく自分が詳しくない分野に明るく、ベストマッチ。指示すれば働く。最高である。

 加えて、精神上の支えというか、楽しみのひとつとなった人もいる。隣で作業してた班の班長君がこれにあたる。なんだかんだ今でも付き合いがあるし、この文化祭活動を機に一気に仲良くなったと言える。この出会いを得た時点でチーフになってよかったと言えるくらい。とにかく話して楽しいし、教養?があるし、趣味が似ている。しょうしょうウザったいし自尊心高いのに腹が立つが、そんくらいの尖りがある方が面白い。向こうがどう思っているかはわからないが、僕としては最高の友達の一人といえるかも。

はっきりいって、彼らのような支え(集団でなく、一人の人)は必要不可欠である。誰か一人でいいから見定めるとよい。誰もよさそうな人がいなくても、いつかよくなるから、きっと。

むしろここまでも独りだともう終わりである。何もかもを抱えこみ、相談もおしゃべりもできない、、、。ツマラナイ。これに関しては一年生のころにかかっている、、、というわけでもない。実際、となり班のチーフ君とは二年生後半からやっと話し始めたくらいである。それでせいぜい1年間くらいの仲だが、かなり印象に残る出会いになるものだ。あきらめてはいけない。

ただ、しいて言えば「見えないものを見る人」が欲しかった(上から目線すぎる)か。とにかくどこを見ればいいかわからない僕にとっては、秘書的な人が欲しかったよ

(´;ω;`)

 

今日はここまで

こういう思想的話はかなり楽しい。所詮は「ねー僕の話聞いてよー」っていうコドモと変わらないだろうけど笑。

完全なる僕の考えなので参考になればと思います。絶対的なものにしてはいけませんけどね。

もしここまで読んでくれたならありがとうございました。多分続きかきます