僕の備忘録とか

記録とか適当に思想ばらまいたり

文化祭への考察 多分その2

文化祭という概念を作った人は素晴らしいと思います

 

前回は、、、

まあいろいろ書いたけど続きですね。ちょっと原理に立ち返ってみますかね。そもそもそれなりの年齢の高校生に何を求め、どうすべきなんでしょうかね、、、高校の一行事に。

 

高校の文化祭って何のために?

結論から言うと、自己表現と協同のため、だろうか?

まず、”高校の”と付け加えたのには大きなわけがある(あくまで僕が通った公立の中高の話なので当てはまらなかったらごめんなさい。)。

中学の文化祭は、はっきりいってただの発表会である。先生がだいたい用意した舞台に、適当に踊ったりする。サイアクなのが合唱コンクール

高校の文化祭は逆に、ある程度の自由が認められるとともに「だいたいは楽しいだけの催し」という点が異なると思う。

 中学の文化祭は、とにかく人によって辛い思い出にも、楽しい思い出にもなりうると思う。その差が激しいとともに、辛い想い出になる確率も高いと思う。

簡単に言えば、その訳は「与えられたモノでしかない」からであろう。先に言った合唱コンクールが典型例である。合唱コンクールは、生徒がやりたいからやるものでない。教師側が、中学の青春()と成長()を望むために与えたものでしかない。よって、歌うのが嫌いな人や内気な人は、意識高い奴らに「もっと本気で歌ってよー!」とか言われる末路である。嫌いなことをやらされる不快感は尋常じゃない。

一方、高校の文化祭は自由度が認められているため、やりたいことをやれる。そのやりたいことは人それぞれであり、そこに自己表現の機会が生まれる。加えて、この自己表現の機会というのは文化祭が最初だと思う。小中の美術や図工の時間は、結局絵描きや陶芸、彫刻といったひとつの枠に絞られるが、高校の文化祭でやりたいことは自由に決められる。絵が得意な人は絵を描く班に入ればいいし、踊りたい人はそれ専用の班やイベントに出ればよい。とにかく、選択する自由があり、そのうえでの自己表現が可能ということだ。この高校文化祭を機に、自己表現に勤しむことが大事なのは言うまでもない。

もう一つは協同である。聞き飽きた人も居るかもしれないが、聞き飽きるくらい話される時点で大事なのは確かである。

協同というのは、結局働く側のモチベーションにかかわるので、自由にやりたいことをやれるという点で同じく高校文化祭で初めてしっかりと実感することだろう。

とにかく、独りで静かにやるだけではダメになる。ここである意味人としての試練が課せられる。不釣り合いそうな人でも、話しかけていかに協力して同じ達成目標に立ち向かえるか、、、。これは班長といった権力者にも、一般平民にも当てはまる。

小中までの協同というのは、ハッキリ言って中途半端である、、、とりわけ文化祭の核となりうる、中学のころ文化部だった人にとっては。

この高校の文化祭で、やっと本格的に働くという機会が与えられると思う。(個人的には、結構夜遅くまで学校にいるという経験がこれまでになかったので、夜になっても同じ生徒と居るという感覚が不思議で、楽しかった。)

なんかうまくまとめれないが、まぁつまり独りでいるだけではダメってこと。もちろん、ずーっと独りじゃなければ全然十分。むしろ普段無能っぽい人が一人で真面目に作業している姿を見ると勇気づけられることもある。

 とにかくその自己表現と協同というのを核において文化祭活動に勤しんでもらえると、すばらしい青春を味わえることだろう...。

ところで自己表現と協同って、なんか対立概念みたいに思われる。個人的にはココにこそ本質が隠れていると思う。

ある時では遺憾なく私を表現して、でもある時には他者による表現の機会を手伝う。これの連鎖が文化祭の準備に詰まっていると感じる。そして、こう書くと「自己表現」と「協同」はあくまで自分視点の話であり、周りから見たら「表現」の結果がきれいに映る という事実が浮かび上がる。協同が他者の表現の支えとなっているからだ。だからこそ、協同というものは周りから見えにくい。しかし、なにかしらの表現をするために働いた人は、その表現をした人以外にもたくさんいるということは忘れてはいけない。(少々冗長な表現だが、これは僕のせい笑)

 

少し個人的な話

僕にとっての高校の文化祭は最大の青春といえるだろう。最近、「ああ、、、もうあのような体験はできないのだな」と少し寂しくなるほど。

その理由の一つには、なんといっても「人と関われたから」がある。

僕は小中はだいたい人との関わりから逃げ、話しかけることが苦手なものであった。せいぜい部活の時はそれなりに話したが、部活自体の熱が冷めていたので印象にあまり残っていない。だいたいは一人でいた。休み時間は遊ぶこともあったが図書館に行くことも多かったかもな。それはそれで楽しかった。。。。。?

――なんか寂しい

そう感じることがまれにあった。え?自分で独りになろうとしたのに? そんなもんである、人間なんぞ。そんな矛盾した感情を抱えたまま(というかそもそもそんなことあんま考えてなかったかもしれないが)高校に入った。

なんだかんだあって文化祭準備の時期になる。なんか、働くことが楽しく感じた。人と一緒にいるのって、楽しいのだな、、、。青春である。初めてホンモノの青春☆スクールライフを送れた気がする。三年になってある程度の権力を得てからは、ほかの班とも交流するようになって、結果的にかなりの友達を作ることができた。(と僕は思っている。向こうがどう思っているかはわからないが)

だいたい、一人が好きな人も、周りでみんなが楽しそうに話している環境にいてはいつか限界が来ると思う。その結果僕はだめだとか負の連鎖に陥ってしまってはもったいなさすぎる。とにかく人とともにいる時間は作るべきである。...そんなこと言うと「そんな人との交流がすぐできるわけねえよ、甘くねえんだよ!」とか言われそうだが。まあ実際僕は運がよかったなとは思っている。

でも機会として交流する場があるのは揺るがない事実である。この時に、自分を上に見すぎて「へッ、愚民ども話しかけんな」とか思ってもいいけれど、もしいつか寂しくなっても甘くしてくれる人は少ないかもしれない。

僕としてはここでなんだかんだ人といっぱい話せたので、結果としてある程度の自信を持った人になれた、、、と自負している(自負できるだけ成長でしょう?)

 

きょうはここまで

文化祭の根っこに関しては正直自分としても悩むところがあって書くのが難しい。多分いつもより文同士の接続関係が変だと思うがご了承を。

僕は基本的には弱い人を自認しているが、そういう弱い人が成長できる場として文化祭が機能してもらえればなと思う。実際、文化祭の実行委員の上層部は、無所属の人や、生徒会みたいないつも学校行事で見るメンツではない人も多かった。悪く言えば、文化祭上層部なのが少し意外だなと思う人が割といた。文化祭は実行委員だが、体育祭的なものでは一般平民、という人も結構いた。僕を含めたそういう人らにとっては救いだったのだろう。

文化祭に限らないが、男子校は永遠に、陰キャでも輝ける場であってほしいと心から願う。共学は、、、知らない!