僕の備忘録とか

記録とか適当に思想ばらまいたり

引っ越し前の最後のできごと

dinner:米英ともに主に夕食だが、一日のうちの主要な食事を指す。

 

前日譚

 昨夜、僕は一人で地元最後の外食を使用と思っていた。ラーメンでも良いし、思い切ってかつ丼でも良いし、チェーン店以外ならどこでもOK。そのことをあるSNSに話したら、こんな反応が。

「一人なの?誰か誘えよ。ダメもとでもいいから」

そうだな、、、今までご飯を誘った事はないのだが、一人でいるより誰かといた方が楽しいな、と思ったので、初めてご飯に誘うことにした。うん、僕はこの三年間で人を誘うことができるようになったんだ、とくに躊躇うこともなくね。(陰の者すぎる…)

 

 試しに一番付き合いやすい友達、距離感もちょうどよいある人に声をかけた。しかし、ちょうど予定が埋まっていたそうな。ザンネン。彼は仙台にいくため、まあ忙しいこともあるだろう。次に声をかける人は、、、どうしようか?地元の大学に残り続ける人を誘ってもあまり楽しくはない。彼はまだ四年以上の時をこの地元で過ごすのだから、こんな最後の飯に付き合うのはかわいそうというか空気が冷めそうというか。よって、まずは地元を離れる人に限られる、それで、あまり離れたとこに行かない人か、、、、

―――そんなに深く考えた僕は、今思えば馬鹿だった。一人、いるじゃん。今年から知り合って、めっちゃ話して、同じ大学受けて一緒に(?)落ちて、離れ離れになるのが嫌になるほどの、、、友達がいるじゃんか。そうだ、正直僕は気に入った人ほどうまく振る舞えない癖(?)を持っているので、避けようとしていたが、その必要はなかった。一度一緒に歩いたことがあるんだから、もう心配する必要もないハズ。

結局、彼と一緒に昼ご飯を食べることにした。これは僕にとって最後の、高校生で、連れ合いとともにいる外食。

 

accident!

 今日はその昼飯以外にもなかなかに用事があった。市役所に行って、もろもろの手続きをする必要があったのである。しかし、思いのほか早く終わったので、さっさと都市に行くことにした。市役所と駅は近いので、わざわざ家に帰るよりはずっと効率が良いからである。その主要都市の、行きつけの市立図書館で時間をつぶそう。

 ...図書館は閉まっていた。そうだ、、、確か3/27閉館という紙は何回か目にした。そっか、今日が当の3/27か。相変わらず運の悪いことだ。自転車もないので、しかたなくお散歩をすることにした。

 行く予定の店の近くにはいろいろな興味深い建物がある。まず行こうと思ったのは、めっちゃ古くからありそうな狭いスーパーだ。古くて小さいスーパー。なんか惹かれた。中に入ってみると、ただただ狭いだけのごく普通のスーパーなのだが、僕はこれで満足。セルフレジを見張る店員がいることには衝撃を受けたが。結局有人レジでいいじゃん!!高齢者にとっては人と話していることも楽しいんだから、あんな地域密着型のおじさんおばさんばっかのスーパーにセルフレジなんていらないんだよ。

 次に、近くの神社に行った。戦没者を祀る神社であり、戦争に派遣された者たちの生の声を聴いた気がする。平和について考えるためにも、こういう護国神社には一度行くべきだと思う。靖国参拝が叩かれるのはハッキリ言って異常ではないか。戦士がかっこいいとか戦争がクソだとかそういうのでなく、戦争について考えるのに護国神社に行ってみるのは大事だと思う。どうも戦争の話をし出すとネットでも荒れがちなのでそろそろ控える。

 こんなところで時間をつぶして、一昔前の僕には良い意味で刺さる、店の二階に掲げられた宣伝用の女子イラストの写真を撮って待っていると、やっと来た。友人はバスで来たのでかなりの時間遅刻したが、それは仕方ない。僕としては散歩で時間をつぶせてよかったと思うほど。会ってみると、とくにおしゃれをしてるわけでもないい、いつも通りの姿を見れて安心。高校を卒業すると、調子乗って髪を染めたり変な風に切ったりする人が居る。高校時代は真面目だった人もそうだ。はっきり言って、柄が悪いなとしか僕は思えなかった。まぁ、モテるために頑張ってると言えば聞こえはいいのだろうけど、どうもズレを感じてしまう。幻滅と近いかもしれない。そんな中で変なことをするわけでもなく自然体でいる彼の姿に僕は安心を覚えた。服もはっきりいってオシャレだが地味である。顔もごくふつうよりちょっと上って感じ。そんな外見からは想像できない中身の広さ、グロさ、豊かさが彼の良い所だと思う。

 

食事time

 激辛料理を食べた。料理に言及するとプライベートがガッツリかかわるのでこれに関しては控える。辛いとしか言ってなかったが、なんだかんだ食べきれていた。素晴らしい事だ。

 食事時間は激辛料理を食べたことよりも、なんとなく話していたことの方が印象に残っている気がする。楽しい。僕は人と話している時間が好きなのだが、中でも話してて楽しい人である。基本的には話をしつつ、聞くのも全然楽しい僕にとっては、適度に話しかけてくれるあの人はなかなかに良い存在だった。僕の知り合いの人は、聞き手に徹しすぎる人と、とにかく話すのが好きな人が混在して、聞くことも話すこともできる人はありがたいものだった。僕がなんとなく話したら適度に反応し、逆に向こうも話をする。とりわけ、僕は人の人生を知って想像するのが好きなのだが、彼は要所要所に少し昔の話をしてくれるので興味深く聞いてられる。彼の高校以前の話はなかなかに壮絶だったらしく、同情とともに心が痛む。うーん、、、やっぱりみんな何かしらで闇を抱えがちなのだが、どうもその闇が自分にとっては刺さるものだった。想像すると悲しくなる。でも彼は(というか僕も)なんだかんだ高校に恵まれ、青春は上書きされたのだ。

*年月が経っても思い出と言えない「黒歴史」は誰もが持っていると思う。ここで、上書きできる「青春」を手に入れた僕らは幸運だったのだろう。上書きできないほどの記憶を持つ人も必ずいると思う。僕は、そんな記憶をできるだけ抱えさせないような社会が作れればと思う。彼はたまたま高校で楽しく過ごせたが、もし何か踏み間違えていれば怠惰から一気に堕落した生活を送る可能性も無きにしも非ず。僕も同じ。僕も中学時代うまくいけないことが多々あったし、ズボンを下げられたこともあってあまりいい思い出はない。学級委員長になったもののうまくクラスを纏められなかった。基本的にはなんとなーくで居たのだが、何かしら結果として僕が最低の学級委員長であることがばれたら、一気に虚無感に襲われて今みたいになんだかんだようやっとる生活は歩めなかっただろう。

 

いったんの離れ

 店を出てから、都市の駅までそれなりに距離があるので、彼の目的地までは一緒に歩いて帰った。個人的に、彼と歩いて帰るのはひとつの夢であったので、意外にも最後の最後で達成された。この辺は持ってるな、僕。

 帰り友達と下校することは、全然なかった。早く学校から脱出して自由な時間を手にしたかったから。でもこれは誤りだったな。今後悔しても遅いけど、もうちょっと青春に友人関係という側面を入れたかったと思う。大きな喧嘩はなかったが、僕の変な性格のせいでちょっと引かれたことはある。ひとつ謎のエピソードがあるのだが、ここでは語らないでおこう。。。

 最後に高校三年間の下校道を通るとき、ぼくは友達と一緒に歩いて話しながら帰った。すばらしいエンドだった。誘ってよかった。これで後悔はそんなにない。さようなら。まぁ、どーせすぐ寂しがり屋の僕が彼のところに遊びに行っちゃうけどね。逆に彼も、後で北海道に遊びに行く、と言っていた。率直に、うれしかった。一年ほどしか付き合いはないのにここまでぶっ濃い関係になるとはね。でも、彼もいつも暇してたらしいし、そんな時にちょっとした色付けができたのはよかったのではないか。ありがとうね、僕も楽しかった。こんな友人がいる事実は絶対忘れてはいけない。まぁ、別れなんて大きいことをいうつもりはない。どーせ後で会うんだからさ。

 

今日はここまで

明日から北海道へgo。忘れ物はないかな、大丈夫だ。もう、残すことはない。でも取り返しはする。帰っては来るよ。図書館行けなかったのは無念!

こういうコドモらしい青春もこれで終わり。彼と最後を過ごすとは意外ながらうれしかった。それでは、、、。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

地元のはなし

ノスタルジアは現れるのか?それとも郷は上書きされる?

 

そろそろ引っ越し

大学も決まった事で、さっそく4/1に大学関係の最初の用事がある。よって三月中で僕の地元とはひとまずお別れ。ありがとうございました、北関東の某県くん。

まあ、僕にとっては地元を離れる、というより家を離れるということの方がオドロキな気がする。これまで十年以上いた場所から離れる、、、最近入試でいろんなとこ行ってたけど、毎回この場所に帰ってきた。しかし、帰る場所が変わる。

こう思うと悲しいもんだ。家を離れるのってなんか嫌になる。いろんな本もあるし、ゲームもあるし、思い出もあるし。ずーーーーーっといた場所から離れるのって違和感である。これから全く別のところで新しい人生が始まると思えば明るいもんだが、新しいことを始めるにはこれまでのことを止めなければならないこともある。付加でなく、とりかえ(?)なのである。

だったら、仕方ないか。でも、ありがとうね

 

僕の市

ちょっと地元の話。

僕の住む市は、県の大都市の近くで、決して立地は悪くないのだが、いかんせんその割に町が栄えてない。昔は栄えていたのだろうが、今は衰退の一途っていう感じ。とにかく、人気の店はだいたい古くからある店で、新たなチェーン店が生まれるゆとりがなさそうなのである。高速道路も通ってるし、そんなに場所は悪くないのだが、、、。

やはり残念なのは、鉄道網だろう。僕の市は、関東髄一のローカル鉄道路線の駅しかなく、とにかく鉄道の本数が少なすぎる。駅も小さいし、駅の場所もなかなかに変である。昔発展したであろう通りの少し奥に駅があり、発展しているバイパスからは程遠い。なにより、駅から最寄りのコンビニまでかなり歩かなければいけないのである。

鉄道頼りの学生にとっては酷である。ちなみに、敢えて「鉄道」と言ってるのにも当然訳がある。これ以上言うとちょっとバレそうなのでカット。

 叩きすぎるのはかわいそうなので、良いことを言いたいが、やはり町の評価は比較してこそなので難しい。高速の入り口が結構良い位置にあるのはありがたいかな。多分大人になったらわかるかもしれない。

 

高校付近

僕の通っていた高校は、当然住んでる市の隣の都市にある。というか僕の市にそんな神学校が置ける余裕も人材も生徒もない。その都市はなかなかに良かった。

とにかく、古い所と新しいところが共存している。いろんな建物が建てられつつある地域に、古くからの建物がある。一番栄えている通りを少し曲がれば、老舗の店や蔦が

絡む空き家がある。こういう古いものと新しいものが混ざっている感じは僕のココロに刺さる。なんか良い。言葉では表しにくいけれど。

加えて、飲食店も割とある。駅中にも割とあるし、駅から離れて徒歩圏内にも、自転車で数分走る程度のところにも。気力があれば、20分走ればかなりの飲食店が並ぶ大通りに行けなくもない。やる気に相応な場所で飯を食えるのはいい事である。しいて言えば駅近くの店を増やしてもらいたかった。全く同じような服屋がならぶモールは、男子高生にとってはただの邪魔でしかなかった。ファッションで釣るなんてひどいもんだよ...

正直、駅ビルには服屋が多すぎる。置いとけばいつか女性が来ると思っているのだろうが、正直もっと置くべき店があると思う。

 

今日はここまで

なんとなく着地点を見失いそうだったので、ここで命綱を切って無理に着陸。

ネタ切れとは言わないが、ちょっと薄くなりがち。いったん濃い話をしなきゃか、、、例えば、友達の話とか。今の県で書く話の締めはこれにしようか。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

女子枠の話

天下の京都大学さまが…

 

女子枠導入

京都大学が、女子枠を導入して少々炎上した。詳細は下に

特色入試(女性募集枠) | 京都大学 (kyoto-u.ac.jp)

 

文字通りであるが、簡単に言えば、特色入試に新たに女性枠を作ったということ。新設かどうかは工学部に関しては明言されてないことに注意。心の性別か体の性別かも不明。左派多いしココロ女性も許しそうだけどね。

目的としては、男性に大きく偏る男女比の是正だそう。

 

くわしくみる

Twitterでは、工学部の女子枠に関して、「二次試験ないし共通テストだけやんw」と書かれた。この書き方は語弊を招くに違いない。たぶん、「提出書類」をそこらへんの調査書で十分だと思っているからだろうが、そんなことはない。課題研究において優れた業績を残したとか、理系科目で優れた成績を修めた、という大事な大事な推薦要件を見逃している。きっと「ちんko切れば京都大受かる」みたいに考えている人はそんな業績を残してないだろう。土俵にすら立ててないのである。

よって、工学部に関しては、「女子枠のせいで(相対的に)頭悪い女子でも京大入れる」という言説は完全なる誤りである。もちろん、男女差別とかとは別の観点の話。

 

問題は、理学部である。

出願要件は、工学部と違って、何か大きいことを求められることもない。提出書類の「学びの報告書」が気になるもののそんな大変なことではなさげ。

じゃあ、その分試験が大変なのかな?と思ったが、、、

――共通テスト配点が、重い。

理学部の枠のなかでも、二つの募集形態があるのだが、ひとつは50%ほどで、京都大のわりには重い。もう一つに関しては78%も占める。ひどいもんだ。あの京都大学が、共テをそこまで重く見るなんて。しかも、足切り(?)ラインは70%らしい。

共通テスト以外には、前者のは、特色入試特有の、二次試験とそれに関する口頭試問で点が入るのはそれですべて。後者のは、共通テスト以外に小論文のみ。この時点である程度の炎上は避けられなさそうだが、女子枠専用の二次の問題が、なんと酷い。

物理の問題に関しては、あまり物理の視点は養われていないので多くは語れないが、数学でまさかの。

。。。京都大の過去問では簡単そうな微分積分の問題2つ。しかも、サンプル問題のひとつが過去問の小問の使いまわし。まさかの積分計算。

もちろん簡単とは言わない。でも、こんなので口頭試問って何をするのだろうか?まず定積分とはなんなのか、微分積分の関係を聞いたりするのだろうか?積分計算をどーやって考えたかの思考法は、果たして大学で必要とされる視点にそこまで直接的にかかわっていると言えるのか?

こんな偉そうなこと言えるのには理由がある。普通の男女関係ない特色入試の問題と比較できるからである。

普通の特色入試の問題は、とにかく解析に関する問題が多かった気がする。四問にすごい長い時間をかけて、(確か一問につき一時間くらい時間がとられてた記憶)口頭試問をする。積分計算なんてものとは程遠いものだ。これなら、口頭試問するにはちょうど良い題材と言えるし、何より大学で学ぶ数学と、少なくとも積分計算よりは近いものといえるだろう。

これに関しては、女性を舐めているだの、問題が簡単すぎるだの、批判は免れなかった。そらそうだ。

 

女子枠について 

上に書いたのは、京都大の女子枠の問題。ここからは、女子枠という概念について考える。

目的としては、男女比の是正である。

今の日本で、理系に進む女性が少ないのは周知の事実である。異様に男性が多いことで多様性が損なわれているのではないか、ということ。

まず...いまいち、理系分野に男性も女性も関係ないのではと、僕は思う。「男性のぼくだからこそこの研究をしました」とか、「女性の私でないとできない」という研究なんてあるのだろうか?そして、もしそのようなことをいう女性は、男女比にかかわらず(というか男女比が偏っているからこそ)研究する気は削がれないと思う。多様性があるのはいいことなのかもしれないが、それで女子枠を急いで作るほどでもないかなとは思う。

ただ、男性も女性も関係はないが、男女比のせいで女性が理系に進まないという事実からは眼をそらしてはいけないと思う。シンプルに考えて、研究者が増えるのはよい事である。男女比のせいで研究者が減っているといっても、あながち間違いではないかもしれない。

まず、男性が多い場所における女性は異質に見られがちであり、性的な目で見られる確率が上がるだけでなく、とにかく「女子だから」という理由で変なことされることが多い気がする。次に、男性が多いから、という理由で入らない人も少なくないだろう。その状況を改善するために、無理やり女性を増やそうという思考も少々強引ではあるものの最悪の手段とは言えない。

 

結論としては、女子枠じたいはそこまで悪いものではないと思う。研究者を増やすためなら、、、。ただ、京都大の理学部サンプル問題は再考すべき。京都大学に関しては、特色入試の枠を男性と女性で同じくらいにすればよいのでは、と思う。

 

今日はここまで

ちょっと薄め。深くは突っ込まなかった。まぁ、、、不確定なこと多いし、そもそも男性の僕が女子枠を深く語れるかは不明。

 

引っ越し手続きが辛いです。正直つかれました(´;ω;`)

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

うかった

ほんわかして虚無な日々もついに終焉を迎えた

 

合格発表

 前の京都大の時は、「合否発表」と書くくらいしかできなかったが、今回、北海道大学の後期に関しては「合格発表」と書ける。合格確率は7割くらいだと見込んでいた。やっぱ共通テストのアドがかなり大きかったと個人的には自負しているので笑

もちろん(?)合格していた。無事、サイアクのエンド、すなわち、東京理科大学・通称5年制大学への投獄は免れた。北海道、、、実は昔から行きたいと思っていた。異国感。日本でない気がする。特筆すべきところは、もちろん内陸の高速道路。僕の県の高速道路は地方都市らしく道のまわり(?)には、建物がちらほらある。山もあるしトンネルもある。ただ、北海道はとにかく一本道。なんかロシアみたいである。この北海道という、ロシアのような広々としたちょっと寒く、平坦な道を走るのはさぞ楽しい事だろう。この前読んだ小説で、自分探しの旅をするとてどっかドライブして交通事故を起こし、死んでしまった、主人公の兄を思い出しつつ。僕は死にません。年老いてみてられない体になったら死んでもいいですけど、まだ若いからね(´・ω・)

 

これしか書くことがない?いや、、もうちょっと。

 

異性との付き合い

小学校はいわゆる教室の隅っこ暮らしで、女子と話す機会はほぼなし(というか機会自体はあったのだろうけど、見逃したかあってもスルーしたと言える)。中学も同じ。部活は男子しかいない、最強の陰キャ部・科学部。当然女子との青春はゼロに近い。高校は男子校。もう僕の世界で女子は登下校の間しか息していなかった。残念なことだ。まぁ責任は僕にあるのだけれど。

一転して、大学。サークルだのいろいろあるけど、とにかく女子も平然といる環境である。出会う機会をもう見逃してはならない。何より衝撃を受けたのは、同じ高校のある友人のことば「僕は○○大入って絶対彼女作ります。口説きのイメトレもした」

。。。まあ、いい事なんだろうけど、その大学は付属校勢の金と権力がある陽性人がいっぱい。例の神戸大とは比にならない空間だ。多分死ぬだろーな、こんな田舎もんが、、、と思いつつ、僕に感じることもある。彼女なんて作らず、一生独身の世界、、、つまらない、としか言えない。告白して、フラれてやり直すまたは別の人を探して、付き合って、別れるまたは結婚する...という恋愛も、人生における大事な大事な一大イベントではないか。これを経験して、人間としても豊かになっていき、なにより人生が面白く、中身のあるものになっていけばうれしい。そのためには、行動は必要不可欠である。口説きのイメトレは正直やりすぎだし逆効果とも思えるが、女性付き合いを考えることは何も悪いことはない。最近のチー牛のたたかれっぷりはすざまじく、この風潮は大嫌いだが、自らの努力でどうにかなる清潔感は保たなければいけないのは事実。ルッキズムのような、取り返しつかない(整形を除く)ものではない、日々の努力というか習慣でどうにかなる類のものはやらなければいけないのである。これをやらずにモテないと嘆いてもしかたない。

決めた。大学では、女子との付き合いを増やす、、、というより、いっぱい話す。僕としては、話をして仲を深めて、付き合っていくというグラデーションが良いと思ってる。少なくとも、一発で興味を引かすように、イキった事を言うのは小説の世界に限りそう。何より急な上昇は急な下降も引き起こしそうで怖い(;'∀')

 

今日はここまで

 やっと虚無デイが終わる。図書館行く日々も楽しいが、これは充実した日々の合間に限る。リラックスはしすぎると怠惰になり、飽き飽きしていき、いつしか疲労になる。虚無でいられることに嫌気がさし、無駄に疲れる。

大学で人生を変えれば、とてもうれしい。大学の成果で学歴厨を見返すのをひとまずの目標としておこう。大災害で役立つ人材になりたい。

 

こういう日記テイストは、いつのまにかうっすうすの「ひびのきろく」と化す未来が見えるので極力減らしたい笑

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

読書への思い

えっと、、、最も拙い文章が今までで一番良いね貰ったんだけど、どゆこと笑

 

読書と僕

 僕は非・名誉理系である。(不名誉...は言い過ぎ)全国模試の構内順位が数学より国英の方がずっと高いこともあったし、入試では物理化学と数学がネックであった。どうして理系を選んだのかよく分ってない。文理の進路希望調査では、最初に文系を選んで訂正し、理系を選び、なんと進路希望調査の選択欄に全て〇がついた跡があるという、話のタネもできるほど。(しかし、文系の血が流れていると言っても差し支えない、と言ったところ、文系の友人に強烈に否定された。)もちろん後悔はしていない。

 読書というとどうしても”文”系のイメージがつきまとう。しかし、娯楽としての読書は僕は大好き。よく教養人(笑)が、「最近のわかもんは本を読まない!」と言うが、そいつらの言う「本」は、たいていお古な文学作品や、岩波新書のイメージがある。実際、割と年取った人で、ライトなノベルや中高生向け現代的青春小説を勧める人をあまり見ない。正直そういう奴らのせいで読書離れが進んでるのではと思うほど。かたい本はつまんない。

 だけど、娯楽としての読書は全く無縁である。人生の役に立つとか、頭がよくなるとかそんなつもりは一切ない。読む本は、もちろん小説。新書を読んで楽しいと思える段階にはまだ至ってない。ただ、小説を読んでるときに登場人物を頭で想像し、彼らの世界を思い浮かべ、新しい物語を見るだけ。それだけで楽しいのである。そして読み終わった後、読み返して思い出(?)にふけったり、考察したり。それで第一フェーズは終わり。第二フェーズは多分未来の出来事で、将来いい年とったときに、中高生の時代を懐かしむという感じ。

 意味ないじゃんっていう人がいると思うが、意味は十二分にあるだろう。読書をするその瞬間と直後の楽しみを享受するために他ならない。この点で、読書はゲームに似ている。ゲームだって、将来何の役に立つか分からない。けれども、その時が楽しいからやるのだし、それで良いのである。ただ、しいて言えば、競技ゲームは物語という点が全くないため、小説による楽しみとはかなり違う。ここでのゲームは、RPGやADV系が近い。(ぶっちゃけ戦闘系ゲームやソシャゲに関しては時間の浪費だと思う)

 そんなことで、楽しいから本を読むという考えが僕にある。というか実際そんなもんだろう。本というのは元をたどれば記録媒体であり、一応伝えた方が良いかなと思って記録することもあれば、作者が物語を考えて、それを読んでほしいために本という手段で伝えるまで。読書の意味における、教養を深めるなんてのはあくまで枝葉にすぎないのではないか。

 

他の世界の想像

 基本的に興味あることやものに関しては一途な僕としては、興味ある人の人生を知るのが好き。あの人がどーいう人生をたどってきたのか、心の移り変わりはどんなのか、知って、勝手に思い浮かべるのは楽しい。。

小説を読むのも似た感覚になる。昨日読んだ本でいえば、主人公のココロの移り変わりという、大筋からは全くそれるが、主人公とその姉のかけあいを個人的に思い浮かべるのは楽しいし、主人公の人生、姉の人生や性格を知って面白くなる。そして、その後の彼はどう生きていくのか、多分家に戻ってもあまり変わらないだろうが、姉という人に出会って何かが良い方向に変われば、と思う。(バッドエンドは着地点を見失った感じがしてあまり好きでない。)異なる世界をケータイがつないでいるのも何かのカギかな、、と思ったり。主人公の居る世界に実体としての姉がいないのは寂しい....。

 上では楽しい、面白いと書いたが、これは同年代補正がかかっていると思う。近しい人だからこそ、共感できるところもあるし、身近に同じ年代の人がいるからこそ想像しやすい。若いコドモの僕にとってはディープな大人のkissはまだわからない、、、ただ、今、大人のことはわからないことがあっても、将来、子供の気持ちが全く分からないということは起こらないはずだ。少なくとも、本という記憶媒体に触れれば。これは救いと言えるかもしれない(?)。昨日抱いた不思議な感情を二度と取り戻せないのは嫌である。それこそ、想像せよということか。こんな懐古的なこと言うと、すぐ大人になれよ馬鹿という人が出てきそうだが笑

 ところで、ボカロ話のときでも書いたかもだが、懐古感というのは不思議なもんである。楽しいとも面白いとも言えない、不思議な感情。もう戻れないことによる寂しさと、成長したことによる優越感と、昔の僕の黒歴史⇒思い出の楽しさと。混ざり合う。ただ、もう戻れないというのは酷な話だ。あたりまえだけどね。前進あるのみ。ただ、古い日々は前進の機動力にはなりえる。

 

今日はここまで

なにかとなにかの間のような、薄いのか濃いのかわからない文章だなとおもいつつ。

青春小説をよんで不思議な感情に浸れる時代はいつまで続くのか、、、できれば、ずっと続いてほしい。けれども老いは(少なくとも現代科学では)避けられない。そう、老いと死は避けられないのである。この当たり前の事実を知ると悲しくなる。明るかったあの子も可愛いあいつも老けるのである、、、。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

ほんの記録

青春小説を楽しめる心があってよかった

 

記憶はモノを媒介する?

 完全に私見であるが、思い出すという化学反応においてモノは触媒の働きをすると思う。普通に日々を過ごしていたら思い出せないものが頭に浮かんでくる。例えば、昔に読んだ小説を読むと、その小説の内容だけでなく、それを読んでいた僕の当時の光景が浮かび上がる。あの時は、、、まだ中学生で、コロナ休校で、ちょうどボカロにはまったころだ、というように。

 よって、懐かしむという行為が好きな僕にとって、モノの保管は不可欠なことだ。しかし、保管が無理なこともある。――今回のように、借りた本ならば。

 娯楽としての読書を好む僕としては、やはり心に訴えた小説の記録をせずにはいられない。忙しくなって昔懐かしむ暇すらなくなって、その小説をもう読まなくなる、という未来は嫌である。せめてこのようなブログ記事に残せば、いつかその記事を見直してまたどっかの図書館で借りるということができる。記憶の修復である。(この点、本というモノは優れている。サイアク無くしてもどっかの書店に行けばいいし、インターネットのシステムが死なない限りは電子書籍を読めばいい。まぁ図書館が本を全部保管すると思うが。)

 ほんのちょっとした本の記録だが、本の内容の記述は最小限で、そこから考えることをただつらつら書いてみる。今回の小説を読んでない人にとっては論理的におかしい文章になると思う。あと上手く整理できてなく、散文的かも。いつも以上に僕向けの文。

 

僕がいない世界

 本日2024/3/17に読み始め、数時間で読破した。米澤穂信さんの「ボトルネック」という小説。図書館でてきとーーに本を眺めたら、あらすじにビビッときてそのまま借りた。ここら辺の直感はやはり正しいもんだ、僕(18)もまだまだ衰えてない。

 一言でいえば、、、ミステリーとファンタジーを添えた青春小説。まぁ内容はwikiに書いてあるからいいとして。

 この小説のカギは、「僕がいない世界」の存在。この話では、主人公がいない世界とは、彼の前に出来たがおなかの中で死んだことになっている姉が何事もなく生まれ、主人公が生まれなかった世界のこと。(主人公の居る世界の両親は、姉とされる赤ちゃんがおなかの中で死んだため、もう一度やって彼を産んだ。よって彼と姉が両方いる世界線は存在しない)彼が生まれた世界と、彼女が生まれた世界は、大筋は同じだが彼、彼女の周りの出来事はそれなりに異なる。ある女子の生死など。そして、一見したところでは、主人公が生きる世界の方が悪い結果になっている事が多い。その女子は死に、ある店は潰れ、両親の仲は悪い。

 彼は、色々あって(ここに書くには長いし複雑)姉の居る世界に入った。記憶は引き継いだままである。感情が薄く受動的で不可思議なこともなんとなく受け入れる彼とは対照的に、彼女は陽気で能動的で、想像力を働かせる。(個人的にこの姉のキャラ大好き)パラレルワールドの描き方はいろんなSF作家が独自に行っているが、今回の話は、彼/彼女が直接影響を与えたものだけ結果が変わり、その他は全て共通。彼女の居る世界に彼は存在しない。

そのいろいろあって姉の居る世界に入った彼は、彼女につれられるままに彼のいる世界に戻ろうとする。ここで、彼は次第に彼女の居る世界と彼の居る世界の相違点を知り、さらに彼女のおかげでだいたいは彼の居る世界より良い世界になっていることを知る。結果、彼は姉をうらやむようになり、生きる気力もなくなってしまうところで、彼はまた彼の居る世界に戻る。

 ここでやっと本の内容から離れる。...僕の代わりに全く別の人が生まれた世界は、どうなっているだろうか?もちろん本小説(?)と同じく、ウクライナ情勢や今の日本政治といった、僕が全く関与してない事象は全て不変とする。

僕自身の性格を見つめなおすと、主人公側の方が近いと思えるだけに、想像力をめぐらしたくなる(一行矛盾?)。なんか、、、もし僕がもっと明るくて、運動神経もよく、その代わりに頭が悪かったら、また別の友達と積極的に遊んでいるだろう。ただ、決してどちらが良い、悪いとは決められないかな、とも思う。僕がもっと頭が良くて京都に行けても、落ちても、そもそも受けようと思えなくても、そもそもそも大学受験とは縁がなくても。良い悪いの問題では一概に対処できなさそう。

ちなみにこのような二面性は、主人公の兄(姉がいる世界では生きており、主人公がいる世界では死んだ)も同じように言及しており、主人公はそれを馬鹿らしいと思っている。

 

主人公と姉

 正直姉のキャラが好きなだけかもだが、個人的に気に入ってるのは、最後主人公が自殺しようとするとき電話が鳴るシーン。電話先は、主人公の姉ということになっている。非現実ではあるが、実は主人公が彼女の居る世界にいたとき、彼女が主人公のケータイ番号とメアドを尋ねたシーンがあり、伏線は張られている(これはお見事)。

電話先では、彼女はそれまでと同じように、想像せよ、思考せよと言う。世話焼きの性が世界線を超えているのだ、、、。話の内容としては本質的ではないが、

個人的には感動した。その後実際、彼女の言われるがままに彼はあることを想像して、実際にすぐ自殺しようという気にはならないようになった。(このように濁すのは、最後、彼が思いとどまるか自殺するかの結末が明らかにされてないため。)それ以前では、彼はこのまま生きる、彼がいない世界の方がよかったと知ったまま後悔の念に駆られて生きるよりは、死の解放を求めていたような言及がある。しかし、電話がかかり彼があることの想像を働かすと、生きるか死ぬかを自分で選択できなくなっているのだ。その点で、生きるという選択肢が死ぬという選択肢と対等になり、彼女の電話は思いをとどまらせた要因といってよい。後に、迷っている中最後に彼女からメールが届いて、彼は微笑んで話はおしまい。

――恥をかかせるだけなら二度と帰ってこなくて構いません。

 もう一つ言うなら、彼は彼女の居る世界で過ごした三日間の最後には、彼女をねたみ、もはや不幸が起きたら喜ぶほどであった。それはそうだ、僕でもうらやむに決まっている。その後彼の世界に戻って電話がかかっても、彼は彼女の声をもう聴きたくないと言った。しかし、彼女の言った想像によってこそ、彼は不可思議な現象を見つめなおし、最終的に彼女のメールに微笑む。この心の移り変わりは面白い。僕としては、彼は自殺をせず、そのまま生きていくのかなと思う。というかそうであってほしい。

 

今日はここまで

 まぁ、文章を理解できなかったら借りて読めばいいだけですね。僕はこの「ボトルネック」という話は好き。適当に図書館で拾って本当に良かった。これで人生がまた一つ豊かになったな。不思議な感情になる。笑える系ではなく、考えさせられるも感動する、、、正直○○系では捉えにくい笑。決して説教めいた描写もなく、結末もある程度は読者にゆだねられているので、典型的な勧善懲悪のしょーもない古典の訓話や道徳の教科書の物語を嫌うひねくれ者でも読める。なにより、姉と主人公の掛け合いが好き。一人っ子の僕としてはうらやましい。。。探偵チックな女子キャラが好きな僕にはジャストであった。米澤穂信さんのは、「氷菓」も読んだがあれも面白かった。やっぱ年代が近いのはいい事なのかな、すらすら読めた。課題図書としても推薦できる。正直某ホームステイ本と少しテーマは似ているが絶対こっちのが面白い。

もしこのブログを読んだ忙しい社畜大人の自分もまた借りて読み返してみてください。青春を思い出すとともにまた新たな考えを持てると思う。

ここまで読んでくださりありがとうございました。頭にある断片的なことをかいただけなのでいつも以上に拙いし論理的でない文章であったと思います。こればっかりは申し訳ないです。

 

 

 

 

ボカロばなし.2

 大人になりたい私たちは、少し古いコンテンツに触れて年上っぽく振る舞う。

 

今日の話

 ボカロにおける一つのコンテンツ、「週刊vocaloidランキング」(以下、ぼからん)をただただ語る。これを知ったのは2,3年前で、ボカロを知って割と経った後である。

参考資料:週刊VOCAL CharacterとUTAUランキングとは (シュウカンボーカルキャラクタートウタウランキングとは) [単語記事] - ニコニコ大百科 (nicovideo.jp)

 

 ぼからんというのは、その正式名称の通り、一週間ごとにニコニコ上の(広義)ボーカロイド曲の再生数、コメント数、マイリスト数を参照したその週のボカロの人気度ランキングのこと。運営がやっているものでなく、sippotan氏による私営(?)事業。収益性も感じられず、ただただ慈善でやっている感じがする。彼は本当に素晴らしい、、、。一回見てみればわかるが、一人で適当に出来るもんでもないし、それを一週間ごとに作ってるもんだから、相当な労力が伺える。超感謝。

 

曲との出会い

 僕は、このぼからんの2008年ごろから2012年ごろまでのバージョンのをよく見ている。古すぎるのは逆に変な気がするが、2013以降はなんとなく好きな曲が少ない。

まず、この動画をよく見る理由としては、さまざまな曲に出会えるから、といった所である。その一週間で人気であれば良いので、top3にランクインしたものの現在の再生回数はせいぜい5万回、というのもザラにある。この再生数が100万回にも満たさないようなボカロ曲に触れるためにぼからんを見ているといっても過言ではない。100万回以上再生されているような有名曲は、PVを凝ったり、万人受けするような曲構成にしたり、逆にインパクトが強いものと、それ相応の理由があるものの、逆に10万回再生のような曲でも光るものは在るはずなのである。その曲にビビッと来る人は何人もいるのである。ただ、多くの人は触れないだけである。そのビビッと来るマイナー曲を見つけた時の快感よ、、、。(あと自慢できる)ただ、その初めて聞いてよさそうだと思った曲は、フルで聞くとなんか疲れたりしがち。やはり再生数が多い曲は聞きやすいのだ。

もちろん、その一週間で人気な曲には、ずーーっと人気状態が継続されているものもある。いわゆる門番ってやつである。メルトとか初音ミクの消失とかJust be friendsとか、500万回再生を超えるような曲は、長い間ランキングに居座り続ける。この、よく聞いた曲が現れることによる安心感も好き。

あと、2010年代後半から今に至るまでの時代で活躍するボカロPが、まだそこまで有名では無かったころの姿が偶然発見されることもある。下ネタ曲が多いれるりりさんも昔はバラードっぽい正統派を作っていたものだった。今ボカロから離れていちミュージシャンとして絶賛活躍中のあの人は昔から人気だった。

 

人との出会い

 共感する人も多いだろうが、僕は昔の人のナマの言葉を見るのが好き。駅ノートとか。ニコニコのコメントはもろそれである。しかし、有名なボカロ曲は最近のクソガキ現代人に汚染されている。ただ、ぼからんはあまり最近のコメントは見られない。そもそも見る人が少ないだろうし、わざわざ書き込むこともないからであろう。よって、ぼからんでは今から10年前以上の人のナマの言葉を見ることができる貴重なツールである。ボカロの発展を研究するのにも十分役立つはずである。そしてなにより、楽しい。「あ、この曲なんか良いな」と僕が今思ったように、なんと10年ほど前、まだ僕がピッチピチの純粋少年であったころに、別の人が同じように「この曲良さげ」と思っているのである。YouTubeのコメントのように、書くのに猶予がある訳でもないから、さらにあまり深く考えずパッと頭に浮かんだ言葉がコメントとして動画上に流れる。もちろんマイナス評価もあるし、プラス評価をするものもある。自由で、今のネットに見られない温かさと共同性が伺える。

また、10年前の人らしい(?)コメを見るのも楽しい。最たる例は「ハチさん」だ。今では米津玄師として日本のトップ歌手となっているが、昔はハチという名前でボカロP活動をしていた。「あぁ、コイツら、今ハチさんがめっちゃすごい人になっている事を当時は知らないんだろうな。。。」と勝手に想像する。なんと楽しい事か!

そして、2010年代といえば避けては通れぬ話題、すなわち東日本大震災も関わりを見せる。sippotan氏も一人の被災者であったため、ぼからんはその頃数か月間休止していた。その後の復帰回では、様々な応援コメントが流れており、当時の頑張ろうムードの人間の温かさを垣間見れた。司会キャラが例のACのCMの男の子の顔になっていたのも面白い。みんな、あの非常にたくさん流れたCMが好きだったのだ。震災の暗いムードではあのCMはありがたいものだ。震災とは一切関係ない、挨拶するたび友達増えるという単純かつ明るいメッセージを伝えていた。僕は今でもあのCMをYouTubeで見る。

話はそれたが、とにかく、10年ほど前の人間のリアルなコメントを見て、懐かしさと優越感にふけるのもぼからんを見るうえで外せない楽しみである。ある意味避難所みたいなもんだ。その点で、ニコニコ動画は本当に終わらないでほしい()ぼからんはボカロを語るうえで外せない資料になりえるはずだ。

 

締め

 今日もぼからんをみて、ハチさんの曲や暴走Pの曲があって感心した。今も生きて活動している、というのに不思議と感動する。

このようなぼからんという素晴らしい動画を作ったsippotan氏は偉大である。感謝をしてもしきれない。あとこの動画を見て気軽にコメントを流した奴らもね。

 

今日はここまで

 懐古感とは不思議なものである。感動でも、興奮でも、悲哀でもない。なんか、良い。心がすっきりするわけでもないが、、、なんか、良い。時のつながりを感じるのだ。ぼからんを見るたび懐かしさを感じられるともいえるかな?上述の挨拶の魔法のCMを見ても同じ気分になる。(ちなみに、東日本大震災に関しては僕もかなり思うことがある。ただ、文字に起こすのは難しい...)

 少々枝葉の話を突っ込んでみました。ここまで読んでくださりありがとうございました。